世界中の人たちを集めて記念写真を撮る。
私が夢見ていることの一つが上のAI画像のような光景です。
これは何かというと、世界中の人たちが地球上の一つの場所に集まって記念写真を撮る。そういう場面です。
21世紀という時代に生きている者同士として、喜びや辛さ、悲しみを共有できる人たちです。
何を記念する写真なのか?それは「私たちは、偶然、今という時を共に生きている」ことを記念する写真です。
この偶然は、とてつもなく稀でまさに奇跡の出会いと言えるのではないでしょうか?
同じ空気を吸い、同じ水を飲み、同じ空を見上げている。
同じような苦しみに耐え、同じような悲しみに暮れ、同じように笑い、同じように生きている。
そんな奇跡的な出会いは、なんとしても記念写真として残しておきたい。これが私の夢なのです。
実はこの場面は私が昔、夢で見た光景です。まだ子供のころだったと思います。
なぜこのような夢を見たのかよく分かりませんが、鮮烈に記憶に残っているのです。
しかし、このような夢物語が実現不可能な事は私にもわかっています。
人間が全員集まれそうな巨大な場所はこの地球にはありませんし、人間は時に分断し、暴力が起こり、他人を憎んだり批判したりしてまとまって集まるのは至難の業なのです。
私がなぜこの夢の話をしたのか。それは、世界人権宣言とは、ある意味で「いつか私たち全員で記念写真を撮りましょう」
と人類に呼びかけている文書ではないか、そう考えているからです。
第二次世界大戦後、この究極の人間同士の戦いを、二度と繰り返さないことを誓うために、発足直後の国連が多くの国々の賛成のもと採択したのが世界人権宣言であり、
この写真を頭の中で思い描く。そしてそれをいつか現実のものとする。その決意が示されているのだろうと思うのです。
しかし、残念ながら世界人権宣言が、世界中で共有されているか?を考えてみた時、そうではないことは誰にも理解できるでしょう。
戦争や紛争はもとより、ジェンダーや人種、能力主義的な人間の評価、いまだ残る奴隷、格差などは、実際に減っているのかもしれませんが、
それでもまだまだ大勢が被害を被っていることは事実です。
日本に視点を転ずると、世界人権宣言が広く市民に共有できているとは到底考えられません。
わが国でも様々な差別、能力主義的な個人の評価、分断と不平等が蔓延しており、その状況は近年さらに悪化しているのではないか?と疑いたくなる状況です。
世界人権宣言がインクルージョンとどんな関係にあるのか?疑問を感じる方もいるかもしれません。
包摂社会とは、まさにあらゆる人間の権利としての人権が、あまねく社会に浸透する社会のことです。
従って、インクルージョンを考えるとき、まず立ち返るべきは人権の原点であり、とりわけ世界人権宣言の精神を学ぶことが出発点になります。
これが私たちの基本的なスタンスです。
このページでは、世界人権宣言とは何か?また、なぜ日本は人権が根付かないのか?そのあたりを次ページ以降共に考えたいと思います。